この記事では、かつて競艇界で大活躍し、引退した後もレジェンドと呼ばれて語り継がれている選手たちを紹介していきます。
①彦坂郁雄、②野中和夫、③今村豊、④植木道彦の4選手を取り上げますが、皆さん競艇界に大きな足跡を残したレジェンドです!
彦坂郁雄(ひこさか・いくお)
1941年生まれ、初代艇王として名を馳せた彦坂郁雄選手。登録番号1515、デビューは1959年でした。
彦坂選手は、期勝率1位・連勝記録・優勝回数など数々の最多記録を保持しているレジェンドですが、一方でポカも多かった選手でもありました。
所属は東京支部(出身は静岡で、当初は静岡支部)で、ホームは江戸川でしたが、たまに一般戦に出場することがありました。当然ながら圧勝かと思いきや、2マークを曲がり損ねて6着に沈み、罵声を浴びて「すみません」と頭を下げたことも。
また、賞金王決定戦(グランプリ)では、カドの4号艇で絶好かと思いきや、まさかのスタートミスで一艇だけ大きく出遅れ、場内が観客の悲鳴で包まれたこともありました。
こういった彦坂選手を見て、当時の競艇解説者は、「彦坂選手は強すぎるがために時々ポキッと折れる」とコメントしていました。
しかし、実は、彦坂選手が「本当に強かった」かどうかは、今でも分かりません。
1988年、桐生競艇場での開催にて、「整備違反」(部品持ち込み)が発覚。彦坂選手は、これで結果的に引退することになりました。
詳細は明らかにされていませんが、日本モーターボート競走会は彦坂選手の記録を現在でも「参考」という形で扱っていることから、「なにかモーターパワーを飛躍的に上げるような行為を行っていたのではないか」という疑惑があります。
なお、同時期に数人のSG級の選手が引退勧告を受けて引退しており、この時に似たような行為を行っていた全員が強制的に引退させられたのではないか、という噂が今でも囁かれているのです。
彦坂選手が活躍していた時代は、まだモンキーターンは広まっておらず、ターンは速度を落として回っていたので、勝負は立ち上がりと直線の伸びで決まるといっても過言ではありませんでした。
※モンキーターンは飯田加一選手が考案した走法でしたが、飯田選手はあまり勝てず、また危険な走法とされて、競艇学校では使うことを禁じられていました。そのため「ターンで抜く」ということがあまり無かったのです。
そんな時代に、圧倒的な活躍をした彦坂選手。ファンにとっては印象深いレジェンドでした。
野中和夫(のなか・かずお)
1944年生まれ、大阪府堺市出身の野中和夫選手。デビューは1969年で、登録期は27期(登録番号2291)でした。
通称「モンスター」と呼ばれ、通算勝利数2574、生涯通算勝率7.50、最高期間勝率9.53という強さを誇りました。
大阪支部所属であったことから、関東の競艇ファンはSGや記念レースでしか野中選手の走りを見ることは出来ませんでした。この怪物が出るレースは、6号艇であってもメンバー次第では1番人気に。
まず言えることは、とにかくスタートが早いこと。本人は「絶対にフライングはしない」という確信があったそうですが、そのスタートはなんと0.02。他の選手は太刀打ちできませんでした。
全盛期の1980年代後半~1990年代に勝ち取ったSG優勝は実に17回。特に彦坂選手が引退してからは、競艇界は野中選手の独壇場だったと言えるでしょう。
野中選手は、時代に合わせる柔軟性も持ち合わせていました。次に述べる今村豊選手の登場により、「全速ターン」という戦法が出てくると、後輩に教えを乞いました。大阪支部の若い選手は「あの野中さんに自分が教えるのか」と体が震えたそうです。
それまでターンで抜くには、「うまく差す」か「ダンプする」しか手がありませんでした。野中選手は差すのもうまく、またダンプする時は強烈なダンプで相手を吹っ飛ばしていました。
もし現在、当時の野中選手と同じダンプ攻撃をしたら、妨害失格になるかもしれません。ダンプを食らった艇のネームプレートが剥がれてしまったことまであったとか。
野中選手のホームだった住之江競艇場は水質が硬く、モンキーターンの練習に向いていなかったため、数えきれないほど転覆したそうです。連日、着替えを山のように持ち込み、必死に練習を重ねてモノにしたとか。
「俺は勝負師じゃない、勝師だ」と言う言葉からも分かる通り、野中選手は「勝つこと」に執着した選手で、勝つためならば何でもやるという強い信念を持っていました。そういった強気の面は、時として「トラブルメーカー」と捉えられてしまうこともありました。
1990年代も後半に入ると、さすがに年齢的なものもあり、衰えが出てきました。すると野中選手は、「もうレースでは客を喜ばすことはできないから、せめて選手のために何かをしよう」と、2005年に日本モーターボート選手会の会長に就任します。
その後もレースに出ていたものの、2009年についに引退。多摩川競艇場の一般戦で、2日続けてフライングをしてしまった時に引退を決意したそうです。
まさに競艇選手として生まれるべくして生まれた男。それが、モンスター・野中選手を表現するのに最も相応しい言い方かも知れません。
今村豊(いまむら・ゆたか)
1961年生まれ、山口県小野田市出身の今村豊選手。デビューは1981年で、登録期は48期(登録番号2992)でした。
1980年、まだ競艇学校が富士山の裾野にある本栖湖にあった時代。若き日の今村選手は、こう考えました。
「ターンの時に速度を落とさずに回れないもんかな・・・」
当時、ターンの時には速度を落として回るのが「当たり前」だったので、もし速度を落とさずにターンできれば圧倒的有利に立てるのではないか、と考えたのです。
そして、今村青年は、スロットルを握ったままターンに突っ込み、転覆しまくりました。あまりに転覆回数が多かったので、教官からは怒鳴られっぱなしだったそうです。付いたあだ名は「本栖の転覆王」。
試行錯誤の最中、江戸川競艇場の飯田加一選手がモンキーターンという独特なテクニックを使っていることを知り、真似をしてみたところ、「何とかなるんじゃないか!?」と思えてきたとか。
そして迎えたデビュー戦。1マークを全速で回った6号艇・今村選手はトップに立ち、そのままゴール。優出を果たし、3着という成果を勝ち取りました。
このテクニックは「全速ターン」と呼ばれ、競艇界に衝撃が走りました。
その後、今村選手は次々と「最年少記録」を塗り替えていきます。モンスター・野中選手ですら全速ターンで抜いてしまう今村選手。その独自なテクニックは彼にしか出来ず、一時代を築き上げることに成功します。
テクニックのみならず、今村選手は徹底した減量を行っていたことでも有名です(同じモーターで走った場合、当然、体重が軽い方がスピードが出るので、有利になります)。
今村選手は元から体重が軽い上に太らない体質だったのですが、レース開催中はブラックコーヒーしか飲まないなどの過酷な減量を行っていました。優勝戦などで予想紙に顔写真が載ると、今村選手の顔はげっそりとやせ細っていることが多かったです。
しかし、30代を過ぎ、40歳になる少し前あたりから、今村選手は耳鳴りやめまいに悩まされることになります。過酷な減量を続けたことも原因の一つかもしれませんが、メニエル氏病という病気にかかってしまったのです。
また、ライバルの中でも、今村選手のテクニックを身に付けてくる選手が現れてきました。そうなると、もはや独壇場とはいきませんでしたが、それでも通算勝利数2880、生涯通算勝率 7.76、77期連続最上級維持、という記録を作り上げました。
2020年、男子の最低体重が52kgに引き上げられましたが、今村選手はもはや体重管理が限界に来ていたこともあり、引退を表明。
競艇界では、「今村前」と「今村後」と言われるくらいに、今村選手の全速ターン(現在でいう「まくり差し」)は衝撃的でした。温厚で優しい性格の今村選手は、後進の育成にも力を入れ、現在は彼の弟子達が活躍しています。
2022年のグランプリで勝利した白井英治選手も、その1人です。
植木道彦(うえき・みちひこ)
1968年生まれ、福岡県北九州市出身の植木通彦選手。デビューは1986年で、登録期は59期(登録番号3285)でした。
1989年1月16日に開催された桐生競艇場のレースでの出来事。3年目の植木選手のボートが転覆し、後続艇のプロペラが植木選手の顔面を切り裂いてしまったのです。
植木選手は命に別状はなかったものの、全治5か月、縫合は75針にも及ぶ重症でした。
通常、こういった事故にあった場合、現場となった競艇場は避けるようになるのが普通です。しかし、半年後に回復した植木選手は、自ら復帰の場を桐生競艇場と決めました。「まずは、桐生競艇場に勝たなければならない」と自らを奮い立たせたそうです。
その後、植木選手は順調に成績を伸ばしていきます。今村選手が作り上げた全速ターンを習得し、更に磨きをかけることによって、メキメキと勝ち進んでいきました。
なお、植木選手の場合、テクニックは「今村流」でも、人物的には「野中流」でした。「全ての競艇選手は俺の敵」とみなし、敵対視していたようです。
ベテランSGレーサーの黒明良光選手が、「植木君も、もう少し回りと打ち解けるようにせんといかんのじゃないかな。彼は敵ばかり作っているんだ。それは良くないと俺は思うんだけどなぁ・・・」と、記者に漏らしてしまうほどだったのです。
そして、初代艇王の彦坂郁雄に野中和夫というライバルがいたように、植木通彦には、四国のドンであり「ターンの魔術師」と呼ばれる中道善博というライバルがおり、SG戦における両者の争いは熾烈を極めました。
1995年に行われた賞金王決定戦(グランプリ)の優勝戦は、「競艇史上に残る名レース」と言われるほど、最後の最後まで植木選手と中道選手のトップ争いが続きました。
1号艇・中道善博、2号艇・野中和夫、4号艇・若き日の松井繁、5号艇・植木通彦でしたが、植木選手は前づけに成功し、2コース発進となります。
中道選手とのデッドヒートの末、ゴールで20cm程度という「紙一重」の差で、植木選手が勝利します。このレース以降、植木選手は「2代目艇王」と呼ばれるようになり、全盛期が本格的に始まりました。
そして迎えた2007年。平和島競艇場で開催された総理大臣杯(ボートレースクラシック)で、植木選手はエースモーターを引き当てて勝ち進み、優勝戦でも1号艇を確保しました。
誰もが植木選手の優勝を信じて疑いませんでしたが、コンマ01のフライングという痛恨の「紙一重」で敗退してしまったのです。結果、平和島競艇場開場以来の大量返還を発生させることになってしまいました。
実は、植木選手は、過去の桐生競艇所での入院中に、「もう選手は止めよう」とも思ったそうですが、最終的に「桐生の皆様、そしてお世話になった皆様のために、20年間は命を懸けて走ろう」と決心して復帰したそうです。
そして奇しくも、フライング休み明けの2009年が、その20年目でした。当時まだ38歳で、まだまだ活躍できる年齢でしたが、彼の決心は揺るぎませんでした。勤続20年の表彰を受けた後に引退を発表、ファンを大いに驚かせました。
そんな植木選手ですが、現在はBOAT RACE振興会のボートレースアンバサダーに就任しており、競艇のファン層拡大に努めています。
TVでの植木選手の笑顔。それは、現役時代には絶対に見られなかったもので、往年のファンは「なんだ、そんな顔もできるんじゃないか」と思ってしまいますが、これは20年間にわたり本当に命懸けで走り続けた証拠だと思われます。