鈴木幸夫選手と鈴木弓子選手という、2人の夫婦ボートレーサーをご存知でしょうか。
既に2人とも引退されましたが、現在の競艇人気の盛り上がりに、すごく貢献した夫妻なんです!
この記事では、鈴木幸夫選手と鈴木弓子選手の夫婦エピソードをご紹介したいと思います!
妻・鈴木弓子選手
鈴木弓子選手は、第46期生として1980年にデビューしました。登録番号は2945。
9年ぶりにデビューした女子レーサーだった弓子選手。デビュー当時、なんと女子選手は4名しかおらず、弓子選手は5人目の女子選手でした。
弓子選手は、その美貌から「競艇界の(山口)百恵ちゃん」と言われ、相当な話題になりました。
レースでも強く、男性レーサー相手に一般戦で互角の戦いを繰り広げ、優勝もしました。
すると、弓子選手の活躍に触発された女性たちが、競艇学校に大量に押し掛けてきたのです!
弓子選手は、今日の女子ボートレーサーの先駆け、モデルになったわけですね!
結果として、女子ボートレーサーの量・質的な向上が図られ、「オールレディース戦」が組めるほど選手数が一気に増加。
ついには、女子王座決定戦・賞金女王決定戦などが開催されるようになりました。なお、弓子選手は女子王座決定戦の第1回大会で優勝しました。
ちなみに、デビュー時は「田中弓子」でしたが、同じ愛知支部の鈴木幸夫選手と結婚、名前が「鈴木弓子」に変わりました。
では、その旦那さんの幸夫選手は、どんな競艇選手だったのでしょうか。
夫・鈴木幸夫選手
鈴木幸夫選手は、第43期生として、1978年にデビューしました。登録番号は2876。
総理杯の優勝経験もある一流レーサーでしたが、本人いわく「目立つのは嫌いなほう」だったそうです。
しかし、結婚する相手が、競艇界に大きな貢献をした「競艇界の百恵ちゃん」こと鈴木弓子選手!
その結婚式には、「競艇の生みの親」と言われ、当時の全国モーターボート競走会連合会の会長・笹川良一氏が同席し、大々的な結婚記者会見が行われました。
そんなことになるとは夢にも思っていなかった幸夫選手。呆然として「なんか、とんでもないのと結婚しちゃったのか・・・俺!?」とのコメントでした。
幸夫選手は愉快なキャラクターで有名でしたので、弓子選手も、そんな所に惹かれたのでしょうね。
ちなみに、幸夫選手は、レースでは非常に特徴的なスタイルを持つ選手でした。
「1コースと2コース以外は考えられない」という徹底したイン屋で、3号艇以降だと100%前付けにくる選手だったのです!
最近はあまり見かけませんが、かつては「徹底したイン屋」「徹底したアウト屋」というスタイルのレーサーが結構いました。しかし、幸夫選手ほど徹底したイン専門レーサーは、けっこう珍しかったです。
本来、「前づけ」という行為は他選手やファンに嫌われるものですが、幸夫選手の場合、「3号艇以降は100%前付け」と選手もファンも分かっており、誰も文句を言わなかったようです。
夫婦対決とその後
そして、1988年2月5日、蒲郡競艇場で開催された第33回東海地区選でのこと。
なんと、幸夫選手・弓子選手が同じレースに組まれ、夫婦対決が実現しました。
残念ながら、あまりにも古いレースなので番組表も結果も残っていないのですが、幸夫選手はいつもどおり「前づけ」に行ったようです。
そして、前づけされたのは、奥さんの弓子選手だったようです。(ちなみに、「わざとそうなるように、番組を組まされたんだぜ」と幸夫選手が後に語っています!)
まぁ、番組構成担当者だったら、ファンサービスのため、そうする気がしますが・・・
その後、1989年に入り、弓子選手が妊娠して引退を決意。
およそ9年間の選手生活でしたが、弓子選手の競艇界への功績は大きく、現在の女子選手が引っ張る競艇人気は彼女のおかげといっても良いくらいでしょう。
モーターボート競走会連合会もそう思っていたらしく、2007年、弓子選手は殿堂入りを果たします。
一方、幸夫選手は選手を続け、2023年2月に64歳で引退するまで、「1コースか2コースしか考えられない」というレースを44年間も貫き通しました。
ちなみに幸夫選手は、2021年3月に桐生競艇場で転覆事故を起こし、ケガをしてしまいました。治って復帰もしたのですが、それからは思うようなレースが出来なくなってしまったとか。
引退の際には、奥さんの弓子(元)選手も、「お疲れ様」と言ってくれたそうです。
夫婦の間には娘さんが2人おり、既にお孫さんも何人かいらっしゃるそうです。
本記事の担当ライターの思い出
当時、江戸川競艇場に通っていた私は、一般戦で若き日の弓子選手のレースを見る機会がありました。
江戸川は乗りにくいことで有名ですので、周りの観客も「娘っ子には無理だろう」などと言っていましたが、それはとんでもない勘違いでした。
まくるわ、直線でトップを抜き返すわで、東京支部のメンバーをコテンパンに負かしていたことが、印象に残っています。
とあるレースの優勝戦。当時の江戸川は、6号艇がインで1号艇が6コースという変則スタイルでしたが、弓子選手は3号艇でカドでした。
そして、トップスタートを決め、綺麗にまくってみせたのです。1マーク前で1艇身以上離しての楽勝でした。
当時の江戸川のウイニングランは、いったん引き揚げてから別のボートで行われていましたが、ほとんどの観客が既に引き揚げたあと、「寂しいウイニングラン」が行われるのが通常でした。
しかし、この時だけは違いました。
沢山の観客が、帰らずにウイニングランを待っていたのです!
ウイニングランが始まると、ものすごい大歓声が上がりました。
当時、あれほど大歓声のウイニングランを江戸川で見たのは、後にも先にも、あのレースだけだったように記憶しております。
いかに弓子選手が強く、人気があったかが、よく分かるエピソードですね!!